<百沢土石流災害>

岩木山を考える会 事務局長 三浦章男

 これは、天災か人災かでずいぶんともめた。二十二名もの人命が奪われたのに、人間というものは愚かなもので、この災害の原因がどうだ、こうだと言い合っている。言い合うにしても、科学的根拠に立ってのことならまだいい。しかし、そこには、責任からの解除だけが見え隠れする。

 私もあの時は、読売新聞等を通じて、身の程知らずにも、その原因について語ったり、書いたりした。だから、愚かな人間への仲間入りは十分にしたことになる。しかし、自分を最も愚かなものだとは思っていない。
 最も愚かなものは、科学的な目で証明された原因を認めることで、自分たちの責任が問われることを恐れ、それから逃れることに汲々としている者たちであり、もの言わない死者や木々をいいことに、頬被りを続ける行政サイドや業者たちであると言える。百沢部落の二十二名は、水害で死んだとされている。ほかに重傷者が二十八名いた。ところが、増水による溺死者は九名であった。窒息死者は十名。それは、増水に加え、土・砂・石・岩・木・竹・それらの根などがまるでセメントと砂、石ころ、それに水がコンクリートミキサーで攪拌されるように、上から流れ下って来たことに因る。彼らはその土石流に巻き込まれて圧死したものである。さらに火傷死二名、失血死一名と続く。
 行政や業者サイドは、その原因として「近年ないほどの、想像を絶するような局地的な豪雨が岩木山上部に降った。」と言う。それにしても、なんと観念的な「原因・理由」ではないか。「想像を絶するような」などとは、個々人の主観によってみな違うものだ。「想像」とは個人の体験や持っている知識・感覚によって大きな差異が生ずるものである。これはあらかじめ、責任逃れの道筋をつけておくための便法に過ぎない。

 客観的なことは「近年ないほどの、局地的な豪雨が岩木山上部に降った。」ことだけである。次に述べる踏査からも、初発・初動の原因・理由として、これはあたっている。
 豪雨の翌日、私は調査のため蔵助沢を遡上し、ついでに大沢にも入った。蔵助沢では、数枚の古銭を発見した。古銭は種蒔苗代でよく見かけるものであるから、きっと種蒔苗代自体も川と化し、流水が底に沈殿していた堆積物を外に運び出したのであろう。あるいは、大沢の巨岩を神の宿るものとして、先人はさい銭を供えたであろうからそれかも知れない。いずれにしてもこのことは、近年にないほどの局地的な豪雨が降ったことを説明することにはなるのである。
 さらに、種蒔苗代の反対側、鳥海の大沢左岸上部斜面には、幅約百メートル、長さが七十から八十メートルにわたって剥離して、それが大沢へと流れ込んでいる跡があった。
 火山灰に覆われて、しかも根を広げて生える這い松等の樹林を持たない噴火口丘は水分を含むと簡単に、流出してしまうのである。
 これも、豪雨を証明するのには妥当な事例であろう。しかし、二十二名の犠牲者に対して、私はこの二つの事例・事実をもって「想像を絶する局地的な豪雨があなたがたを襲い、そして生命を奪ったのです。これは天災ですから、諦めなければいけません。」とは、どうしても言えない。

 それは何故か、私は考える。・・・・・・局地的な豪雨は、種蒔苗代を溢れさせ、あたかも堤防が決壊するように、濁水が泥流化しながら大沢へと流れ出した。その上、大沢上部斜面の火山灰地が土砂流となってそれに加わり、大沢を下って行った。
 土砂流は水流よりも抵抗値が高いから、大沢に屹立している小岩や大岩をも巻き込み、大きな流動エネルギーとなって大沢下部の滝を落下していったのである。江戸時代に供えられた古銭はその流動体に運ばれたものだ。ということは「近年ないほどの」という稀有性の説明にもなる。すなわち、ここ百五十年から二百年間に亙って降ったことのない「豪雨」であったということなのである。
  滝の上部はきれいに洗われ、古い溶岩流がすっかり露呈していた。その辺りの地名が「焼止り」であることに妙に納得させられた思いがある。つまり、この大沢の滝までは、自然発生的な「土石流」なのである、としていいのだ。

 ところが、この「土石流」が蔵助沢に落下して、流れ出し始めると、どうしてもそこに人為的な意味からの要因を挿入しなければならなくなる。
 大沢は、滝を境に蔵助沢と呼称を変える。蔵助沢に入った土砂石流は、ますますそのエネルギーを増していく。この沢は両岸に、それぞれ通称であるが「冬尾根」と「スキー場尾根」を持っている。
 百沢から夏に登山道を登ったことのある人は、焼止り小屋から山麓、すなわち百沢方面を見渡した時の景観を思い浮かべてほしい。右側が「冬尾根」、左側が「スキー場尾根」である。「冬尾根」、これは昔、弾丸滑降コースと呼ばれたスキーコースである。若き三浦雄一郎もここでの競技大会に出場したという記録もある。
 私たちは、冬場によくこの尾根筋を登って焼止り小屋を目指す。なぜかというと、迷う心配がないからである。というのは、スキーコースとして、この尾根は焼止り小屋のすぐ下まで、幅百メートルほどに渡って樹林が皆伐されていて、それに沿って登って行くと、小屋に直通であり、もっとも近いからである。蔵助沢の右岸尾根はこのように、ブナ等の樹木はきれいに伐られているのである。

 さて、左岸の「スキー場尾根」はどうだろう。焼止り小屋は、標高千六十メートルぐらいのところに建っている。そこから大沢の下部を東に渡ってすぐのところが、「スキー場尾根」の上部である。その辺りから下って標高九百メートルほどまでは、ぶなの樹林帯が続いている。しかし、そのあと、スキー場の下端までは、尾根のほとんどが丸坊主である。
 僅かに尾根の両端、つまり蔵助沢と後長根沢に落ち込む斜面にのみ、大きな樹木が見られるだけなのだ。
 本当にきれいに、立ち木は伐られている。障害物になるものはまったくない状態が続いてスキーヤーの好む「滑りやすい」ゲレンデになっているのである。
 蔵助沢を流動体として落下していった土石流は、両尾根から蔵助沢に流れ落ちてくる多量の雨水によって、ますますそのエネルギーを大きくしていったのである。この沢が持つ二つの尾根には、樹木が極端に少なかった。木々の、そして葉が持つ保水能力について、私には、今その実効値を挙げて説明することは出来ない。しかし、この二つの尾根がともにスキーコース、スキー場として、樹木は皆伐の状態にされていたという事実が、その尾根本来の「保水能力を極度に低下させていた」とは言えるのである。
 そして、それこそ「想像を絶する豪雨」によって大沢上部に発生し、蔵助沢に流れ落ちてきた土石流に、それよりもはるかに多量の雨水を注ぎ込む結果となったのである。

 岩木山はほぼ円錐形の山だ。山頂付近の表面積よりは、標高千二百メートルから四、五百メートルまでに広がっている尾根の面積のほうがはるかに広いことは自明の理である。雨量が一定であれば、その総雨量は面積に比例することも明確である。蔵助沢付近にも「想像を絶する豪雨」が降った。そして大沢から流れてきたものに加えて、面積比例によって大沢に数倍する雨水が、そしてさらに、保水能力が極度に低下していた分の量も加わったのである。大沢に散在していた大小の浮石や固定されていた岩は、火山灰と砂、小石による土石流によって下流へと、流れに抗する岩と擦り合いながら落ちて行く。岩に阻まれた流れの底にある土石を引き剥し、その引き剥した土石をまた流れに組み入れて、エネルギーをどんどん蓄えながら落ちて行く。
 流れの量が増大すると、流れは通路を押し広げ、流れをよくしようとする。抵抗物はどんどんと削り取られ、幅は広がり底面はより深く削り掘られていく。
 樹林帯を皆伐状態にされた二つの尾根に挟まれた蔵助沢には、短時間にその沢の通水機能をはるかに越えた量の水が、そして、それに上からの土石流が集中したのである。
 仮に、この二つの尾根が完全な樹林帯をなしていたならば、森林の持つ保水力によって沢の持つ通水機能を越えない範囲の流れを保ったであろうし、あるいは越えたとしても、その割合は僅かであったと推定される。
 翌日、蔵助沢を踏査のために遡上する時、まず最初に驚いたことはスキー場の下端を縦断するように流れている部分が、今でこそコンクリートの川床になっていて、その面影をとどめていないがーものすごく幅を広げ、しかも川床(底)を深くしていたことである。川床(底)に降下するのに、ザイルを使わなければならなかったことが深さの証明になるはずだ。
 さらに、川床(底)は、つるつるとしてきれいだった。粘土質の硬い赤土がむき出しになり、堆積物は皆無に近い。両岸は垂直に抉られていて、赤土の絶壁に見えた。それまでの浅いV字の谷が、深くて大きいU字の谷に変わっていた。

 何故に蔵助沢という通水路がU字に形状を変えたのだろう。
 土石流の運動エネルギーが、流れていく中で抵抗分になる狭い川底部分を剥ぎ取る。それでも、まだ通水路の両側面にかかる抵抗分は残る。今度はそれをも剥ぎ取り、破壊して流れに取り込み、広く深いU字の通水路を形成していったものである。U字の通水路は、川岸が川底に対して、垂直になるので、その部分の崩壊頻度は高くなるはずだ。だから物理的にも、雨水などによって激しく、しかも大きな崩落があった。ましてや、両側の尾根には樹林がほとんどないのである。あるのはU字の谷に面する極めて一部分であり、U字上部の崩落をかろうじて少なくするであろうという気休め的な役割を担っているだけであった。
 そして、その下部にある直径四十センチほどの樹木などは、その根を土石流によって、まるできれいに洗われた大根のようになっていた。これでは、今後もどんどんと谷壁の崩落は激しくなるに違いない。

 川岸の補強に柳等が役立っていることは、昔から知られていることである。蔵助沢両岸の樹木の根は、その上部にある樹林帯が持つ保水力があってはじめて、自然のバランス的「護岸」としての役割を果たすものであり、それと同時に自己の生命保持が可能なのである。
 両尾根をスキー用の人工ゲレンデに改造するために樹木を伐採したことは、自然のバランスを崩し、蔵助沢の傾斜の緩い下流域までにも、土石流体を運び込むための雨水を、多量にしかも激しく注入したのである。
 この二つの尾根に、樹木が鬱蒼と繁っていたならば、百沢部落の手前で、土石流は沈殿するように停止したはずである。
「谷が、川底が深くなった、幅が広くなった。」ということは、それだけ上部の崩落・崩壊とそれ自体の内部的剥離が大きく多いということである。それらが大きく多いということは、尾根そのものの崩壊が激しいことでもある。
尾根の崩壊は、谷や沢を埋め、堰堤の数を増加させ、さらに麓に大量の堆積物を運ぶ。そして、その量に反比例して尾根はその高さを減じていく。低くなっていくのである。この繰り返しを地形的な輪廻として捉えれば、結局は冬尾根もスキー場尾根も平坦な台地となってしまうということなのである。
 スキーは永遠のスポーツか。雪がこの世に存在する限りにおいて、スキーは永遠のスポーツである。だが、平坦な地上では、その永遠性は続かない。平坦な地形ではスキーを滑ることは出来ない。スキーを滑ることで楽しむ人は、「スキーとは斜面がなければ滑れない。」ものであるという宿命をよく理解して、滑れる斜面がいつまでもその形状を保つように常々配慮しなければならない。このことが、後世の人々にスキーを伝えていくためには、最も必要なことである。つまり、スキーヤー自身のためにも、将来において斜面やゲレンデがなくなるようなスキー場やコースの開発には、安直に賛成してはならないのである。
 このまま進めば、岩木山の麓はすぐに丘になってしまう。麓が丘になるということは、岩木山も丘になるということだ。永遠のスポーツ、スキー。それを岩木山で永遠に楽しみたければ、これ以上谷を埋めたり、尾根を崩してはいけない。

 ところで、土石流災害についてどうしても触れなければいけないことがある。それは蔵助沢に流れ込んだものの中にはとんでもない「異物」があったということだ。その異物は、夏尾根登山道の入口付近から東に面したところの広場に、高さが五メートルから六メートル、幅が三十メートルから四十メートルぐらいでほぼ正方形に積まれた岩木山では絶対に見られない白砂(しらす)状のものである。これは土石流災害の数日も前からあったのである。
 異物と呼称した所以は、この岩木山のものではないこと、それにどこからか人為的に運ばれてきて、積まれてあったということである。
 翌日の調査の時、その積まれた異物は五分の二ほどがスキー場下端の蔵助沢に、つまり百沢部落を直撃するかたちで流れ込んでいた。最大に見積もって八千立方メートルの五分の二、三千二百立方メートルの白砂(しらす)状のものが、雨水に流され、土石流に加わってエネルギー増加に手を貸したことは十分に頷けることである。人災説をとる根拠の一部はここにもある。
 ところで、これはスキー場の埋め立てに使われる予定のアップルロードの残土であるとの説もあるが、誰が雨水によって流れ出す白砂(しらす)状の堆積物を置いたのであろうか。その責任は問われたのだろうか。

 災害後、「岩木山百沢土石流調査委員会」はその報告書で、
岩木山スキー場に関して
1)森林伐採による裸地が雨水の流量を増加させた。
2)スキー場の埋め立てに使われた残土が流出した。
3)スキー場のコース、道路が土石流の通路となった。
として「土石を抑える効果を持つ森林をいつまでも保存しておくべきだ。」と提言し、
「山麓地域の開発をやめ、土石堆積の場所として保存する。」
「森林を残す。」など五項目を上げて、県に対して実施するように指摘しているのである。

しかし、それは守られてはいない。

 地形の違いもあるのだろうが、被災地区と隣接している岩木山神社は、奇しくもほぼ無傷であった。背後に広く鬱蒼とした森林があったからであろう。岩木の森が神社を救ったのだとも言える。森林は有り難いものである。
 それから十年後、一昔も経つと人間はなんでも忘れてしまうものらしい。山麓には裸地としての畑が増えたし、長平尾根に新しくスキー場を造るというのである。地元も賛成だという。

 今ある自然のゲレンデをそのまま利用し、樹木の一本も伐らないでスキー場を建設することは可能だと私は思うのである。今ある自然のままのゲレンデそのものでも楽しめることは出来る。
 しかし、スキーヤー達が、ブナ林や他の樹木を障害物と考えないことはないだろう。ほとんどのスキーヤーは、樹木を一本も伐らない、すなわち多数の突起物があり、雪面の凹凸がまったく整備されていない「スキー場」には来ないはずである。スキーヤーにとっては、障害物のない斜面がスキー場である。スキー場を開設する企業は、スキーヤーがより好み、大勢集まるところをもってスキー場とするのであるから、木々を伐ることで、はじめて二者の満足が達成されるのである。

 百沢土石流災害の犠牲者、二十二名は自分たちが死ぬことになったその原因の一部に、この二者の自己満足を発見していただろうか。
 「死人に口なし。」である。だからこそ、考えられるあらゆる原因に、謙虚に耳を傾ける必要があるのだ。
 この二者の一部は、原因の責任側にありながらも、頬被りを決め込み、スキーヤーは何事もなかったかのように、カラフルにファショナブルに格好よく滑っているのである。
 スキー場等の開発にともなう山林伐採と二十二名の犠牲という大惨事との因果関係は、開発という行為が発生するたびに繰り返し語られるのである。それは語り続けることで、犠牲を風化させないためであり、開発賛成側に歴史的な反省から学んでもらうためでもある。


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