『自然への共感は永遠にー 三上正光さんの死を悼む』


 三上さんは、主体的に自分の意志や興味を持続させ、それらを支える生命力と総合的で相対的な様々な視点で、あるがままを直視する人であった。一九七六年の「白神山地で日本初シノリガモ繁殖確認と廻堰大溜池コウノトリ飛来初記録」や七八年の「十二湖のクマゲラ確認」などは彼だからこそ出来たのである。
 彼との最初の出会いは八十年に娘と一緒に参加した十二湖での探鳥会であり、その後は一連の青秋林道阻止運動の中で時々出会うものの、彼の背中を見ていることが多かった。そして、「美しい岩木山を美しいままで子孫に伝えよう。」と九四年「岩木山を考える会」を設立して以来八年間、幹事として、彼から多くを学び困っている時には彼がいつも助けてくれた。
 ある時、山道を一緒に登りながら「鳴き声で鳥の名を知るにはCDやテープが一番ですか。」と訊いたところ「テープを何回か聴いて出かけたら、覚えたはずの声がみんな違うんだ。鳥のいる場所で覚える方がよく解る。」という正直な答えが返ってきた。現場で鳴き声の対象を長い経験と知識や情報を総動員することによって、相対的に鳥の名が理解されると言うのだ。
 彼は自然となんの抵抗もなく共感出来る能力・自然に対する優しさを持っていた。人を含めた生き物すべてを自分と平等に扱い、生き物の時間で見て聞き、発見し感動し、感謝して多元的な価値を保証する優しさの持ち主、何よりも平和を望む者であった。
 彼の交友関係が広いのは単に鷹揚で許容力ある人柄だけのことではなく、このような認識の仕方に拠るところもあったはずだ。
 国立病院に入院してから四度目の面会の日、久しぶりに彼はいい顔をしていた。私は病気を敵と考えずに、仲良しになって共存していこうと考えてはどうかと『「大腸ガンだから切り取ろう」と診断された西丸震哉が、「抗ガン剤なんかで痛めつけないから、そのかわり悪さをするなよ。お前が暴れたら俺が死ぬ。おれが死ねばお前だって死ぬんだ。だからこの際共存していこうじゃないか。」とガンに言い聞かせ、今も元気で暮らしている。』という話をした。私は精一杯の励ましのつもりだった。彼は解った解ったと頷いていたが、四日後の朝に逝ってしまった。
 何ものとも共存・共生していこうとする彼にとってはあまりにも皮肉な結末ではなかったか。仲良くするには体力が既になかったのだろう。或いは優しさゆえに自分だけの延命が我慢ならなかったのかも知れない。
 二十一世紀は世代間倫理を大事にし自然と共存・共生していく時代である。この新世紀の始まりに彼が黄泉の国に旅立ったことは「岩木山を考える会」のみならず、人々すべてにとっても重大な損失であり、哀しく寂しいことである。
 三上さん、今の私は主翼一枚と片方のエンジンを失った飛行機と同じです。しかし、この八年間は心暖まるほどに充実したものでした。あなたは私が気づかなかった岩木山の多くを示唆し諭して、私たちの岩木山を益々素晴らしい山にしてくれました。
 本当にありがとうございます。さようなら。安らかにお眠り下さい。

合掌   二〇〇二年四月七日
           岩木山を考える会幹事 三浦章男