岩木山への思い

会報30号(2004.03.10発行)から転載

佐藤竹郎

 私の父が小学校の校長であったので、私の生まれたのは相馬村下湯口でした。その後、小沢小学校、養成小学校に転校しました。その間、父、母と共に山が大好きで、休みにはよく山に出かけて行きました。岩木山へは春から秋にかけてよく行ったものでした。朝早く起き、歩いて行く途中の風景、小鳥のさえずりなど、山に少し登った時の眺めなどすばらしいものでした。
 また、中学生の頃、姉が小友小学校の教員をしていたので、その住宅に泊って岩木山麓を歩いたりしました。当時は部落を過ぎると、田んぼが少しあっちこっちにあったのみで、あとは草刈場や藪と、所々に雑木林があったが見晴らしがよく、荒野を行く感じでした。それこそ、伊藤静雄詩集にある曠野の歌を思い起こすような景色でした。
 また、父が自得小学校にいたのでよく泊りに行って、そこから奈良寛の溜池を通って、高原の草刈場を過ぎて、小杉沢まで遊びに行ったものでした。その頃は小川がたくさんあり、センブリ、オミナエシ、キキョウ、ハギ、リンドウ等など、野の花がいっぱい咲いていて、兎や狐、山鳥、雉なども見られ、特に秋はススキが一面に白く朝靄に揺れて、すばらしい情景でありました。そういうことで、鬼沢や十面沢などの民話に惹かれるものがあったので少し調べてみました。全くの専門外の私なりのレポートとして書きましたのでご容赦ください。

 岩木山は鳥海山帯に属する火山で、活動を始めたのは第四紀洪積世の初期〜中期(数万年〜二百万年前)と云われていて、古期噴出とその後の新期噴出物で成り立っています。それは莫大な量の集塊岩の噴出物であるといわれています。つづいて溶岩が流れ出て、現在の外輪山である鳥海山と巌鬼山ができました。その後、強烈な爆発により山頂に大きな火口ができて、その時、大量の火山灰、火山礫が飛び、堆積したものが今の岩木山の大部分を覆っているといわれています。
 有史以来の噴火も十数回に及んでいて、一番新しいのは一八六三年(文久三年)ということです。一方、津軽藩成立(一五八九年)からの噴火を見ても慶長五年(一六〇〇年)から一六一八年、一六三八年と天明の大凶作の年は、一七八二年、八三年、八六年と噴火しています。このように、岩木山の大噴火とそこに住んでいた人々とは深
い関わりがあるのです。
 こうしてみると、石器時代は分からないが岩木山麓に早くから住んでいたと思われるのは、おそらくアイヌの人たちではないかと考えます。それは古くから岩木山はアソベの森と呼ばれており、これはアイヌ語で火を噴く山の意味だそうですから。そして狩猟長でもあるということです。
 これが阿曽部族というものだと思います。その後に縄文人がやってきて、その中に津保化族という集団がいたのではないかと思われます。これは津軽弁の「つぼけ」という、悪さをする人間をいう言葉の由来といわれていて、おそらく竪穴住居に住み、つぼ(土器)を作っていた人達だと考えられます。ここに前から住み着いていた原津軽人(?)から見て、悪者に見えたのではないかと思います。
 東日本では、石器時代と縄文時代が長く続いたといわれています。この後期にも亀ヶ岡土器や三内丸山の縄文人と関わりがあるのか、謎が多いところです。縄文時代が長く続いたあと、南の方から弥生文化がやってきて、急速に日本列島に広まっていきました。これは鉄器、銅器も持ち、農耕(水田農業)の文化をもつものでした。そして、北の方まで一〜二世紀の間に広まったと思われます。これが前述のつぼけ族のあとに現れたという(東日流外三郡誌)荒口士族ではないかと思います。この製鉄の技
術をもった集団は弥生時代の人達だということです。今も山麓に湯船、杢沢製鉄遺跡など数多く残されていて、古代の大製鉄地帯であったことが、鬼伝説と相まって判ってきています。
 山深く入った製鉄の技術をもった民は山と里人との争いを通して、山の民(鬼)が悪者として描かれることが多いのですが、鬼沢の鬼は里に下りて来て、開墾や水路、溜池などに手を貸したので善鬼となったものと見ることができます。その鬼伝説をここに取り上げてみます。
 「昔、この辺りはやせた荒地で作物の実りはきわめて悪かった。そこへ岩木山の赤倉から下りて来たという鬼が現れ、せっせとこの荒地を耕し始めた。村人達はこれを見て、ただの鬼ではないと思い、開墾の困難と農業用水の必要を鬼に訴えた。すると鬼は、それでは力を貸そうと言ったきり姿を消してしまった。翌朝になって、村人達が行ってみると荒地には一筋の水の流れが勢いよくほとばしっているではないか。村人達は、早速その水を水田に引き、以後その水は干ばつの時も決して枯れることはな
かったという。村人達は非常に喜んで、鬼に感謝するため、神社を建立して「鬼神社」と名づけ、村の名前も『鬼沢』としたという。」

 更にこの地方には巌鬼山神社があり、製鉄にまつわる伝説があります。これは次のような話です。
 「昔、鬼神太夫(鬼)と呼ぶ剛力の刀鍛冶がいました。桂山の刀鍛冶長者の娘を愛して、娘をくれるようにと申し込んだ。困った長者は一策を案じ、一晩のうちに拾腰(本)の刀を鍛えたら娘をやると約束した。すると、鬼神太夫は一晩のうちに全部刀
を鍛えて持って来たが、長者が一本隠してしまった。それで、鬼は刀が一本足りず、娘を貰えずあきらめて、「十腰無い、十腰無い」と言いながら寂しく去っていった。
 それで、以後この地を『十腰無い』から十腰内となったという。」この鬼の打った刀の一本が今も巌鬼山神社に祭られているといわれています。なお、この地域の山麓に赤倉神社があります。これは先の鬼伝説と同じで、水を田んぼに引いてくれた大男を鬼神様として祀ったものです。この赤倉は霊界と信じられており、この神社を中心に二十有余の堂社が点在しています。今年、自然観察会で私たちが行って見て来ています。

 終わりに、美しい山には女神を祀る例が多いのですが、岩木山には有名な安寿姫が祀られています。この安寿姫が付けていた簪がミチノクコザクラになったと伝えられています。なんとなく心揺さぶるものがあると思います。
 こうしてみると岩木山、その山にはまだまだ未発見のことが多く、私達と遠い昔から深いつながりを持ち続けてきた山であることが実感されると思います。みんなで大切に見守っていかなければと、あらためて感じています。