焼止(やけどまり)

幹事  小野 晃

  岩木山の百沢登山道に「焼止」と呼んでいる場所があります。
 2万5千分の1地形図・岩木山に1067メートルの標高点が表示されているあたりです。
 現代国語の表記では「焼止まり」か「焼止り」となるのでしょうが、ここでは表題の通り「焼止」と書くことにします。もっとも、山スキーで有名なある方は、ガイドブックや雑誌に何度も「焼泊り」と書いておられましたが、その根拠については分りません。
 他にも「焼泊り」と書かれたものは時々見受けることがありました。

 それはさておき、私が小学校低学年の頃(1930年代)の岩木山登山では「焼止」というのは山火事の火が上へ上へと燃え広がっても、この場所まで来ると火が止まってしまう、だから焼止と呼ぶようになったのだ、と聞かされていました。
 大人になって知識が増えてからは、山火事とは限らず春先の野焼き(山焼き)の火であっても同じ現象があったのではないかと思うようになりました。
 百沢登山道の尾根は、1950年代まで採草地として利用されていた部分がありましたので、山火事よりは野焼の方が納得できる気もしました。
 焼止で火が止まるのは、このあたりまで採草地の植生(草本と落葉広葉樹矮性低木混じり)だったのが、ここから上部ではチシマザサ(ネマガリダケ)が優占する植生に変わること、それに加えて、特に春先では鳥海山から南東方向に伸びる残雪が、ちょうど焼止のあたりまで厚く積もっているせいではないかと考えています。
 鳥海山南東斜面の残雪は、その年によりますが、焼止の更に下部でさえ5月下旬まで消え残ることが珍しくありませんので、残雪による自然消火と考えるのも説得力がありそうです。
 とにかく焼止の下から燃え上がってきた火が、ここで止まったという歴史があったのだと理解しています。

 ずっと後のことになりますが、『森林保護学(改訂版』(四手井綱英編著、朝倉書店、1987)という本を読んだ時、こんな一節を見付けました。
 森林火災では、植生の変化するところ、防火線、林道、河川、崖などが「焼止まり線」になり、焼止まり線を消火の拠点にするというのです。
 そうなると、「焼止」は岩木山の地名−固有名詞であるだけでなく、森林・山地にかかわる普通名詞でもあって広く使われたきた用語だったのかも知れません。
 とにかく岩木山を登る人たちにとって、焼止は百沢登山道の区切り点、単調で長かった尾根道が終り、その先は荒々しく危険でもある大沢(蔵助沢上流部)を登らなければならない、という気持ちの切り換え点でもあります。
 だから、私の知る限りのことですが1930年代にはすでに避難小屋があり、以来、荒廃して倒壊、雪崩で倒壊などを繰り返しながら、その度に多少位置は変わったものの再建され、現在なお焼止には小屋があるのだと思っています。