クルマユリ (車百合) 揺り篭で語る緋色の打衣を着た双童女

 山の季節感では初秋の八月に入っていた。七月の中旬に咲いていたコバノイチヤクソウなどの影は微塵もない。この身の引き際(ぎわ)の良さには感嘆してしまう。
 最近ではあっさりと淡泊、お金や地位にこだわらないことが日本人の気質であった時代は終焉を告げたみたいだ。かつての日本人は桜の花やその他の多くの花々の散り際、つまり引き際の良さに価値と美しさを感じ、我が身にもそれを求めた。それは精神的な所産であり、物や金、権威とは無縁の行動と価値だった。今、大流行の定年後天下ることは、いわば形而下(けいじか)の世界における価値の収奪と権威への安住にほかならないし、彼等は物質文明に毒された哀れな人たちと言えそうだ。
 そんなことを考えながら登っていたら、広い道の両側に鮮やかな緋色がちらちらと揺れ始めていた。二つ仲良く並んで咲いている稚児花は、疲れを取り除く清涼剤だ。目立つ緋色の可愛い花はクルマユリ。花の名前には、その命名が単純で安易なものがけっこう多い。これもその一つで、葉が車状についているからである。花の色合いや輝き、それに形や付き方からすれば、揺り篭で語る緋色の打衣(うちぎぬ)を着た双童女という風情だろう。

メモ:形而下...形があって感覚によってその存在を知ることが出来るもの、物質的なこと。対意語は形而上で精神的なことをいう。