ニオイコブシ 「タムシバ」 (匂辛夷)
                森に春一番の芳香を運ぶ白い木精

 夏道と岩稜の分岐までやって来た。樹林の中には残雪があり、それと岩が混在している。このような場所は歩きづらいものだ。だから岩稜を辿り伯母石に出ることにする。岩稜帯は数メートルの裾に固い積雪を広げており、歩く稜線は五月の風に乾いていた。岩と岩の間にはまたヤマツツジがコメツガと同居している。
 ここは高い。降りていく尾根が緑の絨毯に見える。その中で白い輝きが揺れた。眼を凝らすとポツリポツリと数えられるぐらいに見えている。きっとタムシバだろう。あいにく風向きが逆だった。東風なら香りですぐに解っただろう。森中に芳香は広がり漂う。伯母石の前に出た。ところで私は別なものを求めていた。会いたい。写真にも撮りたい。期待があった。足を止めて登山道の左側にそれを探した。早く春が訪れた去年の五月五日にこの場所にウゴツクバネウツギが咲いていたのである。今年はこの時季に咲いているはずだ。だが見えない。そこはかなり奥まで刈り払いされていた。登山道整備の名残は無惨なものだ。香りが近づくまでもない。視界が狭まりクローズアップでタムシバが見えてきた。なんと毅然とした花なのだろう。その立派さに戦いてしまった。少し離れて見るとタムシバは蒼い空にもよく似合うのである。
 ブナ林が皆伐された跡にはタムシバの林が出来る。一斉に咲き出す景色は圧巻であるに違いない。しかし、これは人工的な異常だろう。タムシバは林中のあちこちに咲いて香りをまき散らすのが一番いいのである。