コミヤマカタバミ (小深山酢漿草)
                春の喜びを頬に染め宇宙に開く小紋

 五月半ばであった。冬期間にスキー客を雪上車で運び上げるために使われたり、ゲレンデとして使用されたブナ林内の尾根は、積雪がすっかり固められて人工の雪渓をなしていた。圧雪状態なのでなかなか消えない。ブナは芽吹き、芽を包んでいた殻が雪上を褐色に染め上げている。それでも、五月晴れの陽光は残雪の僅かな白さを映して眼にはきびしかった。だが、ブナの薄い若葉は葉脈を精一杯のばしてそれを遮ってくれていた。

 私は春の優しい息吹の中を、木々や若葉の生気に助けられながら、人工的残雪の上を辿り、岳からスカイラインターミナルまで一時間半という快調なペースで登っていた。
 登山道には積雪がないのに登る者は私を措いて誰もいない。この道で何かに出会えるかも知れないとの期待に胸が膨らんだ。
 春の日射しは高い。だが、まだ西側のこの道を照らす時間ではない。昨秋の落ち葉は色あせた褐色を見せて乾いていた。登山道と併行してリフトが設置されていて、ワイヤーを牽引する動輪などの軋む金属的な音と利用客の嬌声が乾いた空に響きあっている。私は音の呪縛に囚われて少しだが息苦しくなっていた。そこで、登る先々や足許を懸命に見た。褐色の枯れ葉の上にキラリと白が光った。彼女たちはミヤマカタバミ、大地の爽やかな白い髪飾りだ。もう少し上部ではきっと可憐な小紋たちに会えるに違いない。自然に従い、規則的な棲み分けを彼女たちはする。間もなく、標高にして三十メートルほど登った場所でコミヤマカタバミがひっそりと迎えたくれた。花びらの淡く仄かな赤いすじが可愛らしい。春の喜びを頬に染め宇宙に開く小紋たちである。どちらも花だけを開き葉は閉じていた。彼女たちは自然に逆らうことはしない。陽光を浴びてから裾や襟元を広げるのである。